WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/08/22

睡蓮池 / LOTUS POND



切れ目のある丸い形をいくつか描くと、
池に浮かぶ蓮の葉の群れに見えてきた。

睡蓮といえば、クロード・モネの睡蓮の連作が
あまりにも有名であるが、
睡蓮とハスの池では見た目の雰囲気が
だいぶ違うということは以外と知られていないのではないか。
睡蓮は浮き葉という水面と同じ高さに浮いた葉が基本で、
花もほぼ水面の高さに咲く。葉に切れ目が入るのも睡蓮の特徴である。
それに対してハスの葉は、浮き葉と立ち葉というものが存在し、
水面の高さの葉と、水面から立ち上がった高い位置にある葉とが
混在しているのが特徴で、花も高い位置に咲くのだ。
鑑賞目的の池には、睡蓮があることが多いため、
我々の頭の中では睡蓮=ハスになってしまっている部分もあるだろうが、
2つは全くの別物だったのだ。
また、少し伝説めいた話ではあるが、
睡蓮の花は咲く時に音を立てるというのだ。
朝開いて夜には窄んでしまう礼儀正しい花だけに、
その音を耳にすることができたらそれは貴重な体験だ。
一説ではその音を聴くことができると悟りが開けるとまで言われている。
ポンッという破裂音を立てるというのだが、
まるで空洞の茎の中で膨張していた空気が開花と共に破裂する音と
考えるのが妥当かもしれない。

自分の耳で聴いたわけではないので、
信憑性のある話はすることはできないが、
朝靄のかかった睡蓮池でただその音を待って耳を澄ますのも、
なかなか風流で贅沢な時間なのではないか。
2015.08.22

2015/08/21

松我夢 / PINE GUM



細い線を束状に描くと、
指で摘んだ若い松の芽のシルエットのようになった。

盆栽をやるような人にとっては、
松の芽摘みは毎年恒例のことかもしれないが、
松脂が手にベトベトとまとわりついて、
お世辞でも快適とは言えない作業である
松脂といえば、高校時代にハンドボール部の連中が
滑り止めのために手に塗っていたのを思い出すが、
よくもあんなにベトベトしたものを塗るものだ。
松脂の成分は油溶性があるらしく石鹸で洗えばきれいに
落とせるが、それでも進んで触りたいとは思わない触感だ。
その成分がゴムや粘着剤の原料になることは知っていたが、
我々がよく噛んでいるチューインガムの
噛み粕になるガムベースと呼ばれる部分の原料として
この松脂の中に含まれるロジンという成分が
使われることもあるというのだ。
もちろん松脂そのままではなく、変成したものが
ガムベースなるということだが、
あの噛んでも噛んでもなくならない独特の歯触りは、
確かにどこか共通するものがあると言えばあるかもしれない。
ガムを噛んだままスナック菓子を食べると
なぜかガムが溶けて柔らかくなる感覚が面白くて
子供の頃によく実験していたことがあるが、
油溶性がある成分だからそうなっていたということが解り、
子供時代の不思議が1つ解けたような気がして少し嬉しかった。

それにしても、松脂のような手に余る素材でも、
有効活用しようとした先人の知恵に頭が下がる話である。
2015.08.21

2015/08/20

海星 / STAR FISH



五芒星のような形が描けた。
しかし、星のようなシャープな印象ではなく
エッジがゆるく有機的なものに見えてきた。
ひょっとしたらこれは、海星(ヒトデ)かもしれない。

本当か嘘かわからないが、
我々がよく使いなれたアイコンの星型は
このヒトデの形が元になっているという。
確かに、夜空にきらめく星はこんな形をしていないし、ただの光の粒である。
どこかで、言語的な意味記号のSTARが橋渡しになり、
二つの記号がひとつになったと考えることができる。
またこのヒトデという生物は、裏側が非常に
複雑怪奇な形状をしていてなかなかグロテスクである。
造形美ととらえることもできなくはないが、
一般的には鳥肌系のビジュアルと言えるだろう。
真ん中に空いている穴は捕食のために使われ、
星型の形状に沿うようにドットやヒダや毛がある。
そして彼等は非常に自己再生能力が高く、
腕1本くらいであれば簡単に再生してしまうという。

人間では考えられない生態をしている彼等はどちらかというと
エイリアン的な立ち位置の生き物と考えた方がいいのかもしれない。
映画バイオハザートに出てくるゾンビの1種の口の形状が
非常にヒトデににていると思うのは僕だけであろうか。
海鼠などとも同じ部類に含まれ、
特に食用にされることのないヒトデだが、
煎じて飲めば、何かしら身体に効能がありそうである。
ひょっとしたら、人類の希望の星にならないとも限らない。
2015.08.20



2015/08/19

0認識 / IMAGE RECOGNITION OF 0




ぼんやりとシルエットで表現した
視覚的な記憶の中の0と、
極力単純な図形で示した0に近い
プロポーションの間から、
0という数字の記号認識を考えてみようと思う。

アラビア数字の肝であり、
インド人によって発見された0であるが、
角の数の理論に則れば、0は角を持たない。
全ての始まりであり、
ある意味、ないものを形で表したとも言えるものである。
また、他の数字と組み合わせる上では、0がなくては
数が表せなかったり、計算をすることもできない。
無であり、全てを包括する存在であるところが、
密教の大日如来(サンスクリット語の「A」で表す)と
どこか近しい存在感を感じる。
インド人の数学者ピンガラは、2世紀頃まで
「空であること」を表すサンスクリット語'sunya'を
ゼロや無を表す言葉として使っていたという。
その後、インドの偉大な数学者アールヤバタが、
著書'Aryabhatta-siddhanta'の中で、ゼロを
数字として認識して、計算をを可能にし、
5世紀に入ると、ヒンドゥー教徒の数学・天文学者で詩人の
ブラフマグプタが算術にマイナスとゼロの概念を導入し、
著書'Brahmasphuta Siddhanta'(宇宙の始まり)の中で
0の計算について初めて記述したといいます。

おそらくだが、この数学界における0の概念の確立と、
ヒンドゥー教におけるブラフマンや、
密教における大日如来信仰の考え方は大きく関係していると思う。
数学において0の概念が確立した後に組み立てられた思想・哲学として
考えると図像的な理解が非常にスッキリとするのは私だけであろうか。
最も象徴的なのは、密教における両界曼荼羅の世界観で、
2つの複雑な図像は違うものでありながら
どこか2つが元は1つであることも感じさせる。
その世界観は、中心にある0(ZERO)の包容力に
包まれていると考えると、非常に数学的なカタルシスを覚えるものだ。
2015.08.19




2015/08/18

9認識 / IMAGE RECOGNITION OF 9



ぼんやりとシルエットで表現した
視覚的な記憶の中の9と、
極力単純な図形で示した9に近い
プロポーションの間から、
9という数字の記号認識を考えてみようと思う。

アラビア文字の9の形は、インド文字、ペルシア文字と
ほぼ同じ形をしていることからも、何かその形に
意味がありそうだと思ってしまう。
1の位においては、0と最も遠いと同時に、
10と最も近いため、ある意味ぐるっと一周回って0に
戻る直前ということで、こういった渦巻き型になったのではないだろうか。
スーパーのチラシなどで価格のお得感を出すために、
198円や99円などとあえてひとつ上の位よりも
少し下の価格設定にすることはもはや定石である。
銀河鉄道999なども、あえて1000の位にしないことで
我々の感性に訴えかけてくるものがあるのだろう。
本当か嘘か分からないが、あえて1000にしないことで、
鉄郎=大人になる手前の少年   を表しているという。

なるほど、9は記号として次の位に上がるための
エネルギーを最も蓄えている数字なのかもしれない。
そう考えると、ある意味無限のエネルギーを持った
0という数字を呼び出す咒のようである。
また、普通の人間の寿命ならば、年齢としての9に差し掛かる
機会自体が9回を超えるのことはなかなかない。
99歳を経験する人間というのは、
選ばれし人生をものすごいエネルギーで生き抜いている
ヒーローのようにも思えてくる。
2015.08.18






2015/08/17

8認識 / IMAGE RECOGNITION OF 8



ぼんやりとシルエットで表現した
視覚的な記憶の中の8と、
極力単純な図形で示した8に近い
プロポーションの間から、
8という数字の記号認識を考えてみようと思う。

アラビア数字の8は、メビウスの輪を縦に起こしたような
非常に恒久的な安定感を感じさせる形である。
しかしながら8も、前進のインド数字、
ペルシア数字と比べると全く似つかない形をしている。
インド数字、ペルシア数字においては、
Vを逆さまにしたような形をしていて、
0〜9の形状の関係性の中に何かしらの図形的なルールを見出そうと
観察していても、なかなか発見することができないのだ。
おそらくだが、インドで0の概念が確立された後に、
10進法の位取り記数法が確立された段階で、
0〜9を記号としてもっと判別しやすくするべきであるという
結論に至ったところで、現在の算用数字(アラビア数字)の
図形としての形が確立されたのではないだろうか。
並べて表記したり、筆算のように計算をする際の利便性を
追求した結果、はっきりと個性の違う10種類の図形が
生まれることになったと考えられる。
数字の数えと記号としての特徴の一致、不一致に関しては
漢数字でも同じようなことが伺える。
一から五までは見た目でも数えを表していることが認識できるが、
六から九に関しては文字の形から数を読み取ることは困難である。
字の成り立ちは全く別の由来を持ち、
十進法や位取り記数法に合わせる形で漢字が当てられていったと
考えるのが自然かもしれない。

数字の変遷から、人間が意味を後付けした記号というのは
ある規則が浸透していて初めて機能するものであることが分かる。
逆に言うと、ルールがなくても無意識に認識できる
記号というものは限られているのだろう。
それは、我々の身体から生成した身振りや
自然界に起こる現象の範囲に限ると考えるのが自然である。
2015.08.17





2015/08/16

7認識 / IMAGE RECOGNITION OF 7



ぼんやりとシルエットで表現した
視覚的な記憶の中の7と、
極力単純な図形で示した7に近い
プロポーションの間から、
7という数字の記号認識を考えてみようと思う。

アラビア数字における角の数のルールに則ると
7を表記する際には2本の横棒を入れる必要がある。
その形は我々が認識している7とは大分印象が違う。
7はラッキー7などという特別な意味も付与される数字で、
777のぞろ目の印象が脳裏に焼き付いているために
余計に見たことのない表記に出会うと
特に違和感が強いのかもしれない。
インド系のアラビア数字やペルシア文字に至っては、
7の表記はアルファベットのVに近い形をしている。
イスラエルの時計台の画像が非常に面白い比較になっていたので
リンクを貼っておく。
わざわざ2種類の数字の表記を時計台に用いるのは、
2つの言語背景を持つ人種が共存することの象徴なのか、
あるいは共通言語化された数字へのアンチテーゼなのか、
非常に象徴的な例だと思う。
それにしても、インドで生まれた数字を今では世界の
4/5が使用するようになったことは、まさに革命である。
10進法や、位取り記数法のシステムが世界に浸透していく様は、
インドの数学者からしたらこの上ない学者冥利に尽きることだったのだろう。

アラビア数字が西洋世界に初めて紹介されたのは、
1202年にフィナボッチが記した「算法の書」によってだという。
日本に至ってはアラビア数字が使われるようになってまだ100年余である。
我々は何の疑いもなく数字に支配されているが、
身の回りに氾濫する記号の海の中でただただ溺れてしまわずに、
自分に一番しっくりくる記号を探してみるというのも
面白いのかもしれない。
2015.08.16