ぼんやりとシルエットで表現した
視覚的な記憶の中の0と、
極力単純な図形で示した0に近い
プロポーションの間から、
0という数字の記号認識を考えてみようと思う。
アラビア数字の肝であり、
インド人によって発見された0であるが、
角の数の理論に則れば、0は角を持たない。
全ての始まりであり、
ある意味、ないものを形で表したとも言えるものである。
また、他の数字と組み合わせる上では、0がなくては
数が表せなかったり、計算をすることもできない。
無であり、全てを包括する存在であるところが、
密教の大日如来(サンスクリット語の「A」で表す)と
どこか近しい存在感を感じる。
インド人の数学者ピンガラは、2世紀頃まで
「空であること」を表すサンスクリット語'sunya'を
ゼロや無を表す言葉として使っていたという。
その後、インドの偉大な数学者アールヤバタが、
著書'Aryabhatta-siddhanta'の中で、ゼロを
数字として認識して、計算をを可能にし、
5世紀に入ると、ヒンドゥー教徒の数学・天文学者で詩人の
ブラフマグプタが算術にマイナスとゼロの概念を導入し、
著書'Brahmasphuta Siddhanta'(宇宙の始まり)の中で
0の計算について初めて記述したといいます。
おそらくだが、この数学界における0の概念の確立と、
ヒンドゥー教におけるブラフマンや、
密教における大日如来信仰の考え方は大きく関係していると思う。
数学において0の概念が確立した後に組み立てられた思想・哲学として
考えると図像的な理解が非常にスッキリとするのは私だけであろうか。
最も象徴的なのは、密教における両界曼荼羅の世界観で、
2つの複雑な図像は違うものでありながら
どこか2つが元は1つであることも感じさせる。
その世界観は、中心にある0(ZERO)の包容力に
包まれていると考えると、非常に数学的なカタルシスを覚えるものだ。
2015.08.19
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