WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/08/19

0認識 / IMAGE RECOGNITION OF 0




ぼんやりとシルエットで表現した
視覚的な記憶の中の0と、
極力単純な図形で示した0に近い
プロポーションの間から、
0という数字の記号認識を考えてみようと思う。

アラビア数字の肝であり、
インド人によって発見された0であるが、
角の数の理論に則れば、0は角を持たない。
全ての始まりであり、
ある意味、ないものを形で表したとも言えるものである。
また、他の数字と組み合わせる上では、0がなくては
数が表せなかったり、計算をすることもできない。
無であり、全てを包括する存在であるところが、
密教の大日如来(サンスクリット語の「A」で表す)と
どこか近しい存在感を感じる。
インド人の数学者ピンガラは、2世紀頃まで
「空であること」を表すサンスクリット語'sunya'を
ゼロや無を表す言葉として使っていたという。
その後、インドの偉大な数学者アールヤバタが、
著書'Aryabhatta-siddhanta'の中で、ゼロを
数字として認識して、計算をを可能にし、
5世紀に入ると、ヒンドゥー教徒の数学・天文学者で詩人の
ブラフマグプタが算術にマイナスとゼロの概念を導入し、
著書'Brahmasphuta Siddhanta'(宇宙の始まり)の中で
0の計算について初めて記述したといいます。

おそらくだが、この数学界における0の概念の確立と、
ヒンドゥー教におけるブラフマンや、
密教における大日如来信仰の考え方は大きく関係していると思う。
数学において0の概念が確立した後に組み立てられた思想・哲学として
考えると図像的な理解が非常にスッキリとするのは私だけであろうか。
最も象徴的なのは、密教における両界曼荼羅の世界観で、
2つの複雑な図像は違うものでありながら
どこか2つが元は1つであることも感じさせる。
その世界観は、中心にある0(ZERO)の包容力に
包まれていると考えると、非常に数学的なカタルシスを覚えるものだ。
2015.08.19




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