WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/01/24

赤月 / RED MOON



1本の曲線に、1つの円。
何もない空間に、ポツンと円を置くと
大方の人は「太陽」とか「月」をイメージする。
それは、我々が普段最も目にしている円の記号が、
「太陽」や「月」であることを改めて気づかせてくれる。
円1つではなく、写り込みの虚像や雲などを
描き加えることで、そこに風情や意味合いを感じることもできる。
また、色によっても大きくそのシニフィエが変わってくる。
月には満ち欠けがあるが、そこにはあえて触れないでおく。
今回は、月の中でも最も見たときの気分に影響する、赤い色を配してみた。
赤月は、不吉にすら思えてくる色合いの月で、
通常の月よりも低い位置に顔を出す。
大気中の塵などの影響で夕日の赤と同じ原理でこの色合いになるそうだ。
あとは、低い位置にあることを分からせるために、
山のシルエットを想起させる線を、月にかかるくらいの位置に配した。

厳密に言えば日中に月が見えることもあるが、
太陽が沈むと月が昇るといったように、
我々はこの2つの円の関係性の間に存在しているとも言える。
もっと言えば、その2つの円の支配から逃れることはできないのかもしれない。
まさに、その赤い月を見て恐怖を感じるという感覚がその絶対的な
主従関係を物語っているようにも思えてくる。
月は、旧暦で行うお月見という風習があるなど、
古くから信仰の対象にもなっている。
お月見は元々、秋の収穫を感謝する儀式だったようだが、
現代人はそこに風情を感じるというわけだから、
現代においては、そういった古くからの信仰行事というのは
「非日常」であったり「贅沢な時間」といったことへと、
価値の変容を遂げている。元々どうだったかは、あまり関係がない。
おそらく、心のどこかで無意識の主従関係を感じ取りながらも、
今後も時代の変化に合わせてこういった行事に対する価値観は
変容あるいは進化していくのだろう。
2015.01.24





2015/01/23

蟹指 / CRAB FINGERS



二股に分かれたゴツゴツした線は、
先が尖っていて何か分厚いものでも2つに切り裂けそうだ。
赤と緑の補色の色面分割を背景に置くと、
何やらこれは蟹のハサミのように見えてきた。
我々の指は5本あるが、何かを切り裂くことはできない。
蟹の指は2本しかないが、その代わりに何かを切り裂ける。
このCRAB FINGERSは、蟹が不器用の代償として手にした
破壊力のある道具とも思えてくる。

しかし、冷静に考えてみると
このハサミで紙を切ることはできなさそうだ。
どちらかというと、何かを「挟む」「潰す」という方が
表現として正しいのかもしれない。
ということは、我々が蟹の「ハサミ」と勝手に呼んでいるだけで、
蟹にとっては「関節のない硬い2本の指」でしかないのかもしれない。
ちょっとかわいそうにも思えてくるのだが、
それによって蟹は、我々で言うところの「ピース!」のサインに
「俺は怒っているぞ!」という、
威嚇するシニフィエを与えることに成功しているのだ。

どうしてそうなったかは分からないが、
進化の過程において、指が2本しかないというのは非常にリスクがある。
そのリスクをカバーするために、その2本の指に
器用さと引き換えに何かが与えられた可能性はある。
天は二物を与えない。などとよく言うが、
まさに蟹のハサミの例はそれに当てはまるような気がする。
2015.01.23


2015/01/22

ナメック星人 / ALIEN NAMECK



僕は螺旋型が好きである。
特に、黄金比の分割から割り出されたそのアールは格別だ。
手描きの勢いに任せて書くとなかなか黄金比にはならない。
それもまた黄金螺旋の魅力だと思う。
しかし、自然界の造形にには多くの黄金比や黄金螺旋がたくさんある。
例えば、アンモナイトの殻の渦巻きなどは非常に黄金螺旋に近い。
都内で生活していると見かけなくなってしまったが、
梅雨の時期になると紫陽花の葉の上などに出現するカタツムリも
その巻き貝のような螺旋の殻を被っている。
僕は子供の頃から、このカタツムリは
ナメクジが殻を被ったものだと思っていた。
しかし、どうやらそれは間違いらしく、
カタツムリの殻は、体から染み出した石灰分で形成されたもので、
くっついていて離れないものらしい。
ナメクジは全く別の生き物だというのだ。
知ってたよと言う人も多いかも知れないが、結構ショックである。

ちなみに鳥山明の名作ドラゴンボールに出てくる
ナメック星人は、ナメクジが由来である。
劇中に登場するナメック星人のキャラクターで、
デンデとネイルというキャラクターがいる。
ちなみに、カタツムリは英語でSNAIL。
言わずもがなだが、カタツムリは別名デンデン虫。
デンデもネイルも鳥山明の描くヒエラルキーの中では、
ナメクジ星人の1人として描かれているのだ。
きっと、鳥山明も僕と同じように、カタツムリは
ナメクジが殻を被ったものだと思っていたに違いない。
世界中で受け入れたれたドラゴンボールでそう定義されているのだから、
もはや、カタツムリもナメクジも、まとめて
ナメック星人と呼ぶ方が正しいのかもしれない。
2015.01.22


2015/01/21

金魚色 / GOLDFISH COLORS



頭が大きくて、ひらひらと泳いでいるようなシルエット。
何だろうと思いながら、鮮やかな赤と黒い帯をぶつけてみた。
それまではクリオネのような軟体動物にも思えていたが、
赤と黒の印象にからか、金魚のようにも見えてきた。
大きな頭に見えていたものは、出目金の飛び出した目のようにも見えてくる。

我々は金魚という存在を様々な要素から認識しているが、
特にその色は、脳内のイメージ形成の過程において
かなりの部分を占めているのだろう。
そもそも、金魚というのに、金色に輝いているイメージはない。
金魚という名前の由来は、光が当たると光って見えることや、
観賞用として昔とても高価だったことから来ているそうだ。
やはり、金魚の色と言えば赤や黒を真っ先にイメージする。
その様態の発端を遡ると、有力な説として、
中国の晋の時代に、フナが突然変異で黒い色素を欠いて
赤くなったという説がある。この話を聞くと、
金魚の色の記号性が赤や黒であることが気持ち良く腑に落ちる。

中国では今でも、金余(チンユイ)という名で、
蓄財につながるとされ、観賞用で人気があるようだ。
まさに金魚の名に恥じない働きをしているわけだが、日本ではどうだろうか。
もちろん、縁起物としてお金を出して観賞用に購入するケースもあるだろうが、
どちらかというと私たちの金魚のイメージを形成しているは、
お祭りの金魚すくいの生簀の中を泳いでいる大量の赤と黒の塊である。
その色彩の記憶と、目の前にある図像とのアナロジーこそが
僕の中にある金魚の記号性を作り上げていたのかもしれない。
2015.01.21







2015/01/20

大箸 / BIG CHOPSTICKS



鳥のシルエットを思わせるフォルムが描けたが、
どうも何かが足りなかった。
この鳥には、頭の一部である顎が発達してできた嘴が欠落していたのだ。
このかわいそうな鳥に嘴をつけたいと思い、
大きさを思案していたが、どうやら大きくて立派な嘴が似合いそうだ。
そういえば南国の色鮮やかな鳥に、オオハシという種類の鳥がいた。
その嘴は頭部よりもずっと大きく、非常に扱いづらそうな印象すらある。
ただその色彩といったら、どうしてそんなに色鮮やかになったのか
聞いてみたいくらいの黄色と赤をしている。
鳥の嘴が黄色という概念はここから来たのかと思うほどの強い印象である。
また、面白いことに我々日本人が日常的に使う「箸」という道具の語源のひとつに、
鳥の嘴があるという。
古くは、一本の棒を折り曲げてピンセットのように挟んで使うもので、
そのフォルムが鳥の嘴に似ていたことから来ているそうだ。
そこから、このオオハシを大箸と名付けることのアブダクションが出来上がった。

鳥は、嘴を毛繕いや、捕食対象の殺害、求愛行為、雛へ餌を与えるためなど、
様々な用途で使用する。
進化の過程で発達したこの二股のスティックを、
我々の箸の用途を上回る頻度で使用していることがよく分かる。
箸の使い方が下手な人が増えているなどと言われることがあるが、
もしかしたら、鳥の動きをよく観察することからも
その使い方を学ぶことができるのかもしれない。
2015.01.20



2015/01/19

緑定規 / GREEN MEASURE



指先でつまんだかのようなフォルムの線が
ぼってりとした量感をもった図像は、
体をくねらせながら緑の葉の上を一定の間隔で進む
青虫のように見えてきた。
この図像に等間隔で進む青虫の行動と、
昔、伊能忠敬が 正確な日本地図を描くために行った
測量法とのアナロジーを見つけたことから、
葉の上に定規の目盛を配してみた。
それは緑の葉の大きさを正確に図るメジャーに思えてきた。
このGREEN MEASUREは、この小さな息遣いの中で
何かものすごく大きなスケールのものを測量しているのかもしれない。

このブログを続ける中で、徐々に自分が行っていることを
別の観点から分析するようになってきた。
それは、瞑想という身体性と精神性を結びつける方法論を
図像から全く別の事象や物体とのアナロジーを発見し、
その図像が表す新しい意味性のアブダクションを行うことに
発展させているというものだ。

おそらくここで大切にしているのは、
正しく仮説形成できているかどうかというよりは、
「見立て」という感覚を用いて、
情報のインプットからだけでは形成できない内的な発想を
生成させる過程を丁寧に記述していくことであり、
論理的な正しさではないのだと思う。
この気付きをもとに、少しづつではあるが
ドローイングも文章も発展させていきたいと思う。
2015.01.19




2015/01/18

溶帽子 / MELTY CAP



正円が溶け出して下部が崩れている形。
まるで帽子のような形を、三角形に被せてみた。
それはサクサクのコーンに乗った、
アイスクリームのように見える。
よくアイスクリームショップで、
丸く削ったアイスを最後にコーンの上に乗せてくれるが、
それはコーンに帽子を被せているようにも思えてきたので、
MELTY CAPと読んでみることにした。

アイスクリームコーンは、原材料がコーンなのではなく、
円錐形という意味のCONEからきている。
僕個人的には、食後にデザートとしてアイスを食べることが多いので、
以外とお腹にたまるコーンは不要だという考えなので、
アイスクリームはカップで食べる派である。
それはさておき、アイスクリームコーンは食べられる容器、
あるいはゴミの出ない容器として画期的な発明であることは確かだ。
食べ歩いたりする観点からすると、非常に理にかなっている。
この他にも、食べられる容器というのはいろいろあるようで、
過去には長野冬季オリンピックで、選手村のメインプレスセンターなどの
食堂で、リンゴの繊維を使ったリサイクル可能な食器を
使用したこともあるそうだ。
中には食べられるカップというのもあるそうで、面白いと思う反面
飲み物を飲みたくて使用する食器に、食べることを強いられる感じが
あまり気持ちよくは思えない。
サスティナブルなデザインが求められる時代、
道具本来の機能によって生まれていた弊害を、新素材の発明によって
クリアしていくことは世の中に評価されていくべきだと思うが、
全く別の視点で、同じ食器を洗って使用するという「繰り返し使う」ことや、
経年変化による「味」という概念は大切にしたいと思う。
最近、生分解性成分を利用した食べられる容器を
イギリスの学生デザインチームが発表し、Lexus Design Awardという
コンペを受賞している。水の容器として開発されているが、
様々な食に適用していくにはまだまだ改良が必要なようだが、
目でも食べる和食の文化と、彼らの発表した素材がコラボレーションすると
どういった科学反応が起きるか興味がある。
2015.01.18