WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/06/27

団栗 / ACORN



半月型のシルエットになるように4本の線を引くと、
団栗の殻斗のようになったので、丸い実を中に入れてみた。

団栗はブナ科の植物で、
特にカシ、ナラ、カシワなどのコナラ属の果実の総称である。
団栗の木というのは存在しないのだ。
同じ団栗でも、正円に近いものや、より楕円形に近いもの
などがあるが、それが木の違いによるものなのだろう。
ブナ科の果実の特徴として、殻斗と呼ばれる組織が
果実を覆っている。この種のことを、
別名殻斗科と呼ぶこともあるという。
同じブナ科の植物に栗があるが、栗はなぜか
団栗の括りには入らないらしいが、名前が半分同じことから
同じ仲間なのだということを再認識させられる。
子供の頃よくブナ科の木がある林を歩いていると、
団栗の実がついた木の枝がたくさん落ちているのを目に
したことがある。当時特に疑問に思わなかったが、
その枝を落としているのが、ハイイロチョッキリという
得体の知れない虫だったということを知らなかった。
この虫は、団栗の中に卵を産んだ後に、その実がついている
枝をチョッキリ切り落とすというのだ。
子孫繁栄のための行為なのだろうが、
ブナ林の不思議のひとつが小さな虫の仕業だったというのは、
とてもホッコリする話である。
当時の僕にはその疑問を図鑑で調べるという行動力と
好奇心がなかったのわけだが、いつも森で見つけた不思議と
向き合って様々な昆虫の生態を突き止めていった
ファーブル博士は本当に偉大だと改めて思った。
子供の自然科学観察コンクールの結果が載っているサイトに、
ある小学3年生の研究成果が書かれていたのでリンクを貼っておく。

いまの子供はすぐにインターネットでこういった他人の研究に
アクセスすることができるのは、とてもいいことだと思う。
もちろん、実際に自分で研究することはそれに勝るが、
無尽蔵にある情報ソースをうまく使うことで、
学びが確実に効率化されていく側面は否定できないのかもしれない。
2015.06.27


2015/06/26

兎耳 / RABBIT EAR



2本の細長い楕円形が下から生えている。
それは兎の耳の形をしたカチューシャのように見えてきた。

我々が兎の耳のシルエットだけを見て
即座に思い浮かべるものは何だろうか。
私はバニースーツを着て兎の耳の形をしたカチューシャをつけた
バニーガールを思い浮かべる。
我々のイメージの中にあるバニーガールとは一体何なのか。
それは、ある種の非日常世界において、
男性が好む女性の衣装の代表とも言えるのかもしれない。
その起源は、かの有名な成人雑誌「PLAYBOY」との連動企画で
運営された高級クラブ「プレイボーイクラブ」のウエイトレス衣装として
考案されたのがはじめで、「プレイボーイバニー」という名で
正式に商標登録もされているものであるという。
考えてみれば、PLAYBOYのシンボルマークは兎の頭シルエットだが、
このシンボルマークを兎にした理由がまた、問題を呼びそうな理由なのだ。
兎は1年中発情期のイメージあある動物であることから、
バニーガールたちはいつでも男性を受け入れる準備ができているという
意味を込め、実際に兎の毛皮を使ったコスチュームもあったという。
今では問題になりそうな話であるが、そこに込められた記号性が
今まで残ってきていると考えると、シンボルとしては非常に
強いものであるとも考えられる。当然その後、プレイボーイクラブの
価値観は、フェミニストから性偏見の観点から訴訟が起こっている。
こういったバニー文化は非常にアメリカ的で刺激的だが
日本での古来からの兎のイメージにはなかったものだ。
月の神話や童話に出てくる兎は非常に献身的で慈悲深い存在で
描かれているため、日本独自の発想だけではそういった方向に
イメージが転ばなかったのかもしれない。

我々が対象に見る記号性は常に変化していく。
子供の頃「うさちゃん」といって兎を可愛がっていたものが、
大人になって「バニーちゃん」といってバニーガールを可愛がるようになる。
それは極端な話かもしれないが、BUNNYという英語はうさぎを示す
赤ちゃん言葉の意味であるというのだから、そこには複雑な記号のマジックが
組み込まれているのかもしれない。
2015.06.26


2015/06/25

肉叉 / FORK



先端が4つ又に分かれた線は、
食べ物を刺して口に運ぶフォークのようだったので、
先端にソーセージをくっつけた。

一般的に食卓で用いられるフォークは4つ又のものが多いが、
中には2つ又、3つ又のものもある。
日本語では肉叉という訳語が当てられることがあるようで、
ヨーロッパでのもともとの使用用途も、
二つ又のフォークを刺して、肉を切りやすくするためのものだったらしい。
もともとは料理を取り分けるための道具だったものが、
ナポリ国王のフェルナンド4世が、宮廷で毎日パスタを
食べるように命じた際に、パスタをそのまま口に運ぶ際には
4つ又のフォークの方が使いやすいということで4つ又の
フォークが誕生したという。
その語源はラテン語で熊手を意味するFURCAだったようで、
その名前とシニフィエがとても一致しているもののようだ。
ところで、我々の手は指が5本ある。
5本の自由に動く指を駆使して様々な器用な使い方ができるように、
4つ又のフォークと5本の手の指の間には
近いようで大きな隔たりがあるのではないか。
おそらく、フォークを5つ又にした瞬間に、
手のメタファーであることを否定できなくなっていく可能性があり、
それは、熊の手と人間の手のあいだにある違いが表面化してくることによって
フォークという名前自体の意味を否定することになるからかもしれない。

フォークの指の数のように、誰が決めたのか分からない秩序というものが
我々のまわりにはたくさんある。
それを少し疑って見てみると、物質的な記号性を超えた
意味の記号性という、より深い面白さが現れてくるのではないか。
2015.06.25







2015/06/24

局地的豪雨 / UNEXPECTEDLY STRONG RAIN



もこもこしたシルエットを描くと、
突然どこからともなく発生して大量の
雨を降らしていく不穏な雨雲に見えてきた。

日本ではもうゲリラ豪雨という言葉が定着して長いが、
特に夏にかけて局地的な積乱雲が発生して
1時間に100ミリ以上の雨を局地的に降らすような
ことがあるとゲリラ豪雨になる。
この特徴は、なかなか予測が困難なところらしく
雲行きが怪しくなってきたらすぐに室内に逃げ込む
というのが正解としか言いようがない。
日本ではゲリラ豪雨という呼び名が定着したが、
ゲリラ豪雨に遭遇すると東南アジアに行った時に
たくさん遭遇したスコールとほとんど同じ印象を受ける。
調べてみると、少し雨の質が違うところはあるものの
突発的な豪雨という点ではほぼ同じものである。
これは地球全体の気候変動に他ならず、
日本も東南アジアのような気候帯に少しづつ
入ってきているのではないかと思う。
日本の都市の下水は、もともとここまでの豪雨に対応して
作られていないため、必ず冠水してしまうのが現状である。
はっきり言って、ゲリ豪雨に降られるということは、
くじ引きでハズレくじ引くようなもので、
引いたら腹をくくるしかないという、非常に武士な世界である。

ゲリラ豪雨が降っているポイントと、その周辺とでは
劇画的にその世界が変わる。渦中の人はそれどころではないが、
周囲からその状況をみるとその上にある雲がこの世の明暗を
はっきりと分けていることが見て取れる。
地震雷火事親父ではないが、局地的豪雨は
自然に対する畏怖を感じる貴重な現象のひとつとも思えてくる。
2015.06.24

2015/06/23

風呂吹大根 / BOILED JAPANESE RADISH



切り株のような形を描くと、
甘い味噌ダレを乗せて食べる風呂吹き大根のようになった。

大根は日本の食卓には欠かせない野菜である。
特に柔らかく煮た大根は、出汁が染み込みとても美味しい。
ぶり大根やおでんなど、大根なしには語れず、
主役級になる料理もあるほどだ。
そんな大根料理の中でもとてもシンプルなものとして、風呂吹き大根がある。
風呂吹き大根の名前の「風呂」は、
我々が湯船に浸かる風呂のことではない。
ここで言う「風呂」は漆器を乾燥させるための室(むろ)のことだという。
名前の由来として、漆器職人が冬に漆器を乾かす方法に
困っていた時に、ある僧から、室に大根の茹で汁を炊き込んで
そこで乾かすとよいと教えられ、やってみるとうまくいき、
余った大根を近所に配ったところ、これが美味しいと評判になったことから
風呂吹き大根という名前が生まれたという説がある。
正確には、室を蒸す際に湯を沸かすだけではもったいないので
ついでに大根を茹でたという方が正しいのだろう。
この料理は、かぶや冬瓜などで代用しても美味しく食べることができる。
英語圏の人にこれを説明しようとしたら、
単純にBOILED RADISHなのだろうが、その背景にあるバックストーリーを
正しく伝えていくのは非常に難しいのではないかと思う。

日本料理というのは見た目はシンプルで意味深な名前が
ついていることが多い。
日本人の、5感で楽しませるという遊び心がそうさせてきた文化を、
面白く伝える方法を考えるのはとても面白い。
2015.06.23




2015/06/22

白菊 / WHITE CHRYSANTHEMUM



下から上へ包み込むように半円を描くと、
1輪の菊の花のようなシルエットになった。

菊の花と言ってもいろいろある。
色もイエローやピンク、ライムグリーンのものもあり、
形状も大輪で1輪咲きの大菊をはじめ、スプレー菊と呼ばれる
小ぶりの花がたくさんついたタイプもある。
ただ、日本では菊の花というのは完全に弔事用や仏花といった
イメージが定着している。
その中でも白い菊というのは、葬祭場で用いられたり、
仏様へのお供えとしての役割を一手に担う特別な存在になっている。
間違えて白い菊の花を相手にプレゼントにしてしまうようなことがあれば、
相手にとってはとても失礼で気分を害すことになるのは、
日本人であれば大体の人が感覚的に理解していることだろう。
しかし、その記号性も最初から固まっていたわけではないようだ。
もともと菊の花が持っている意味合いに、
「邪気払い」「無病息災」「延命長寿」というものがあったり、
皇室の紋章のモチーフになるなど、気品漂う格式高い花なのである。
そこに、日本古来から弔いの色とされてきた白が合わさったことで、
その後の白菊のあり様が決まってきたのだろう。
今でこそ弔事のイメージは黒であるが、
もともとの白の意味合いを真っ黒に塗り変わったのは、
キリスト教が葬儀で黒い衣装を身にまとうようになってからという説がある。
亡くなった人に着せる死装束が白であるように、本来的には日本人は
白い色に次の世界への旅立ちという意味を与えてきたのだ。
もし、黒い菊の花が存在したら日本の葬儀が真っ黒なイメージに
なっていた可能性もあるのかもしれない。

しかしながら、葬儀の色彩が黒に染まった今でも、
弔辞や仏花に白い菊の花を用いるという慣習は、
そんな日本人の白に対する感覚の貴重な生き残りなのかもしれない。
2015.06.22




2015/06/21

銅鑼焼未確認飛行物体 / BEAN-JAM PANCAKE UFO



平べったい円板型を上下に合わせたような
図形を描くと、銅鑼焼のようにもUFOのようにも見えてきた。

銅鑼焼(どらやき)の名前の由来は、
打楽器の銅鑼の形に似ていることや、
かの有名は武蔵坊弁慶が傷を負って民家で治療をしてもらった際に、
お礼のために熱した銅鑼の上で生地を焼いて振舞ったのが
最初とも言われているらしい。
関西では、三笠山という山の形に似ていることから
別名三笠と呼ばれることもあるという。
英語で表現すると、どう考えてもPANCAKEだが、
間にあんこが挟まっているため、BEAN-JAM PANCAKEになる。
この独特な食べ物は我々にとって、もっと
記号的に多様な解釈や想像ができるものなのではないかと思う。
銅鑼や三笠山に見立てられてきたというのが何よりの証拠で、
円(まる)という普遍的な図形や、合わせというシンボリックな
造形処理がされていることや、どこか我々の中にある
未確認飛行物体の漠然とした形のイメージに近いことも
万が一関係しているかもしれない
もしかすると、くるくる回りながら宙に浮かんで
空の彼方まで飛んで行ってしまいそうな気もしてくる。
さすがに言い過ぎかもしれないが、パカッと割れたら
未確認生物が出てくる可能性だって否定できないと思う。
もし、そんなこと馬鹿げていると思う人がいたら、
ひょっとしたら、藤子・F・不二雄先生のドラえもんの好物が
ドラ焼きであることで、銅鑼焼の「どら」は
ドラえもんの「ドラ」と思っている節を
疑ってみてもいいのかもしれない。

全く適当な話をしているが、
我々の対象に対する記号的なイメージは、様々な要因から
形成されている。時には先入観を取り払うように、
頭の中にあるイメージの皮を1枚づつ
剥がしていってみるのも面白いかもしれない。
2015.06.21