WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/01/31

蝋梅 / WINTER SWEET



Yのような形を2つ繋げて描いたら、
小枝のような木立のような雰囲気になった。
どうもこの小さな木立が、冬の寒々しい風に吹かれて
もの寂しく立っているように見えてくるので、
Yだけに鮮やかなYellowの花をたくさんつけたいと思った。
花をつけると、丁度1月から2月に見頃になる、蝋梅の花に見えてきた。

梅は、個人的にすごく好きな花の1つである。
その名の通り、蝋で出来たような質感の花びらで、
梅の花に似ているからその名がついたと勝手に思っている。
その驚くべきは、ある時期まで寒々しい焦げ茶色の木だったところに、
夥しい数の黄色い花が咲き乱れるところである。
この花は香りも甘く、それまで寒々しかった冬の空気を
ぱっと明るく暖かいものに変えてくれるのだ。
もう1つ、調べてみて驚いたのは、
この花の英名がWINTER SWEETであったことである。
日本名が、見た目から即物的に付けられた名称であるのに対して、
この英名は、花を見た人の感情やその咲き方を想像させるような
非常に情緒的な名称になっていたのである。

何故かは分からないが、日本人の感覚として「梅」には
梅の花や木、梅の果実の両方の意味を無意識に込めているのに対し、
「梅」を意味する英単語を探すと、PLUMやAPLICOTといった
果実を食すイメージの強い単語になり、
いわゆる果実だけではなく、花を含む「梅の木」全体を英語で表現する場合は、
誤解を避けるためにもJAPANESE APLICOTであったり、
UMEとそのまま表記されることもある。
そのため、蝋梅という比喩的な名称をそのまま英語変換するのが難しいのか、
あるいは英語の名称の方が先に存在していて、
さすがにそのまま日本語に変換するのが難しかったため、
比喩的な名称を与えた可能性もある。
結論はよく分からないが、同じ花の名前でここまで日本語と英語で
ニュアンスが違う表現がされていると気になってしまう。
2015.01.31


2015/01/30

石暗号 / STONE CODE



一見不規則にも見える点の連なりに、
規則性を潜ませるような美意識はとても日本的なものである。
無意識に打った点の中に、規則を見出すことも、また然りなのかもしれない。
奥行きを感じる点の連なりの先に、建物の存在を感じる矩形を置き、
辺り一面には紅葉の落ち葉が敷き詰められたかのような赤を配した。
すると、玄関までのアプローチや造園の手法の1つとして用いられる
飛石のように見えてきた。
飛石は元々、千利休が発展させた茶の湯の世界において、
茶室に付随する露地と呼ばれる庭部分に敷かれたものであった。
その名の通り、飛び飛びに敷かれた石を指す呼び名であるが、
その敷き方にはそれなりに幾つかの作法はあるようだ。
「二連」や「二三連打」など、その配置の主たるリズムを作る石の数を
基準にしたものや、「大曲」や「雁掛」など、
全体の形状から名付けられたものもある。
飛石の敷き方は、ある意味訪れた客人との言葉のないコミュニケーションであり、
そこに美意識を見出せるのは、日本人独特の感性なのだろう。
もちろん、石畳を敷き詰めるのも1つの方法ではあるが、
茶の湯という、ある意味では感覚を覚醒する世界への入り口には、
移ろいがあって不安定なゆらぎが、あって然るべきだと考えた可能性はある。
モールス信号ではないが、飛石に込められたCODEのようなものが
読み解けるものだとすると、
飛石の上で足を運ぶ楽しみが1つ増えるのかもしれない。
2015.01.30




2015/01/29

西瓜片 / A PIECE OF WATERMELON



規則性のない連続したラフな線の集積は、
なんとなく扇型か三角形のような形をしている。
その背景に赤と緑のコントラストを与えると、
何だか夏に齧りつく西瓜の欠片に見えてきた。
色彩と図形から受け取れる情報の中には、
ある行為との関係性を示しているものもある。
ここで言う行為というのは、例えば、
西瓜をカットすることや、西瓜に齧りつくことである。

我々の世界には、自然生成で発生した形態と、
人工生成した形態の2種類が存在する。
逆に言うとそれ以外はなく、
デザインという行為は後者に当たる。
自然生成と人工生成の大きな違いは、
無からの生成か、有からの加工かである。
そう考えると、もはや人間の手が加わっていないものは
ほぼ皆無であると思えてくる。
国立公園や世界遺産など、手付かずの自然を
保護するとしても、そこには必ず人間の手が加わる。
保護という行為すら、人工的なものなのかもしれない。
アートにおいても、様々なインスピレーションを自然から受け、
様々な表現を生み出してきている。
デザインにおいても、自然とサスティナブルな付き合い方をしていくために、
人間は自然の形態をモチーフにしたり、自然の素材を活かすデザインを生み出している。
そういったことが、大きなテーマになっている時代だが、
それは全体のバランスを取るために、ごくごく自然のことなのだろう。
人間は、新しい素材を求めて宇宙にも飛び出して行く生き物なのだから。
デザイナーはなかなか宇宙にはいけないが、
どういったスタンスで仕事をして、メッセージを発信していくのか
考えながら仕事をすることも大切だと改めて思う。

僕は個人的に、ドローイングをするときも
何か既に有る形を描こうとするのではなく、
そこに現象として生まれた形から、再定義していくようなアプローチを
試みている。ちょっと不思議なことをしているなあと思うこともある。
2015.01.29





2015/01/28

一組 / ONE PAIR



浮力を感じる2つの球体と、そこから伸びる線。
そのまま放っておいたら空まで昇っていってしまいそうだったので、
線の端をテープのような図形でとめてみた。
この物体が何なのかはよく分からないが、
ここには様々な力学が加わっている。
浮力、重力、粘着力、風力、その他にもあるかもしれないが、
思い浮かぶだけでもそれだけある。
しばらく眺めていると、ひょっとするとこれは、
第3者である僕からのお節介によってくっついたカップルというか、
1組のペアに思えてきた。なんとも迷惑な話だろう。
もし人間がこの物体だったとしてみると、
人間関係にも同様に様々な見えない力学が働いているのだと思えてきた。

よく、お似合いのカップルなどと言うが、
「お似合い」であることと、「仲がいい」ことはまた別の話だ。
片付けられるのが「仲がいい」であり、
第3者からの視点という力学が加わらないと出来上がらないのが
「お似合い」ということだろう。
惹かれ合う2人の人間は互いに惹かれ合う力の他に、
成長、重圧、しがらみ、雰囲気などといった力学の中でバランスを保っている。
逆に言うと、何もしないでいて惹かれあっているという状態はないとも言える。
別に恋愛評論家でも何でもないので、これ以上深堀りはしないが、
こういった認識で人間関係を見返してみると、
失われていった人間関係や、新しく生まれた人間関係に、
ただただ感情的に浮き沈みすることを
避けられたりもするのかもしれない。
とはいえ、人間は感情の生き物であり、
外からの力学の他に内側にあるコントロールの効かない力学を
抱えて生きていくのだから、面白いんだ。
2015.01.28

2015/01/27

アスパラガス / ASPARAGUS



連続した膨らみのある棒のような形。
芋虫のようにも見えるこの図像をしばらく眺めているうちに、
ある食べ物を思い出した。
味はいたってシンプルなビスケットのような味で、
特徴といえばその形状と一度聞いたら忘れない名前の
ギンビスのアスパラガスというお菓子である。
それに見えたらもうそれにしか見えない。
このお菓子のもう1つの特徴である胡麻粒と、その焦げ茶色の色彩を
コンポジットしてみることにした。
それは、アスパラガスというお菓子を説明するものではなく、
感覚的にそれにまつわる記憶を呼び覚ますような記号的な図像になった。

そもそもなぜあのお菓子はアスパラガスという名前になったのだろう。
素直に考えると棒状のフォルムが似ているからだろうが、
ディテールは全くその容姿に共通性を持たない。
気になって調べてみると、予想に反してそれは形状の類似に
起因するものであった。また、発売当時である40年前は、
野菜のアスパラガスがまだ高価だったことから、
それをビスケットという形で気軽に食べられるようにしたようです。
特にアスパラガスの成分が入っているわけではなく、
当時は機械ではなく手作りで、今よりもそのフォルムが
よりアスパラガスに似ていたと聞いて納得できた。
このことに関して面白くまとめているブログがあったので、リンクを貼っておく。
そのものの持つ記号性は、時間を経てとりまく環境が変化することによって
常に変化し続けることがこの例からもよく分かった。発売当時の話を受け、
このアスパラガスの名称と形状の関係は、非常に記号論的な思考展開の中から
生まれてきたものだと言えるだろう。
2015.01.27






2015/01/26

耳迷宮 / EAR LABYLINTH



耳という器官の外側に見えている形、
一般的に耳界と呼ばれる器官に似た図像。
耳は人間の5感を司る器官のひとつ。
その記号性は、たいがいその表層にすぎない
身体の外側に現れる形で捉えられている。
しかし、その本来の機能と姿は
外側からは捉えることのできない内側に存在している。
耳の主な機能が、音の振動を傍受することは
周知の事実なので、その内側への意識の誘導のために、
音の振動をイメージした連続する円弧を配してみた。

外耳道や鼓膜といった器官の名称は、よく知られている。
また、耳のもうひとつの大きな機能として、平行覚や回転覚を
司どっていることも知られている。
三半規管と総称されるそれがこの役割を果たすわけだが、
この器官の形状たるや摩訶不思議の極みである。
複雑に入り組んだ管の奥に、蝸牛と呼ばれる
カタツムリそっくりの器官が存在する。
英名ではラビリンスと呼ばれるらしく、
まさに身体の不思議の迷宮への入り口である。
半円型の3つのチューブ状の器官からなることから、
この名称がついたそうだが、この器官で
三次元のx軸y軸z軸を把握し、空間認知を行う。
視覚による空間認知よりも、より身体的な
重力の把握を行っているとも言える。
この小さな器官で、惑星規模の重力を感じ、
空間認知を行うなど、考えれば考えるほど、
色々わからなくなってくる。
2015.01.26


2015/01/25

米の実 / RICE FRUIT



楕円に近い形が描けた。
それは、我々がよく口にする主食に似ている。
米は口に入るときは、稲穂から収穫され、
精米された状態である。
そのため、米といって真っ先に想像する図像は、
精米された 「米の実」の状態が多いのだろう。
ただ、その1粒の米の元をたどれは、
無数の稲穂の群生がある。それをイメージして、
黄金色の色面の上に複数の線を配してみた。
それは、米はあくまでも稲穂の「実」だということを
認識させてくれるある種のサインにもなる。

米の味は、他のものとの味のバランスを取ってくれる
中庸な味のイメージがある。 
どんな味か言葉で表しづらいが、
辛い、苦い、すっぱい、などでいうと、
「甘い」がいちばん近い。噛めば噛むほど甘くなる。
果物の実が果糖ので甘くなるのと同じように、
お米も「実」に糖分をたっぷりと蓄えている。  
食物の分類では、米は穀物や主食という分類になってるが、 
以外と米は、果実と同じ仲間でもあるとも思えてくるのだ。
日本酒の味わいはをフルーティと言ったりするのも、
舌が無意識にそんな解釈をしているからなのかもしれない。
2015.01.25