WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/04/11

起上小法師 / OKIAGARI-KOBOSHI



二股に分かれた図形は、
ひらひらと舞う前掛けのようだった。
二つの円を重ね合わせると、
赤ん坊のおもちゃとしても親しみ深い
起上小法師のシルエットになった。

起上小法師は、元は福島県会津地方の郷土玩具である。
何度倒しても起き上がることから、
七転八起の精神を含有している。
これがどのようにして赤ん坊のおもちゃとして
親しまれるようになったのかは分からないが、
赤ん坊と同じように頭の大きな2頭身に近いシルエットが、
赤ん坊の等身大の遊び相手にちょうど良かったらからなのではないかと思う。
ぶつかったり押したりすると、玩具の中心に仕込まれた重りが、
自動的に赤ん坊のお守りをしてくれることで、
赤ん坊の丁度いい遊び相手になってくれる。
そして、赤ん坊用の起上小法師は音がなる。
動きに合わせてカランコロンという音がなって赤ん坊を飽きさせない。
赤ん坊のインサイトをついた、
かなり考えられている玩具であると改めて思った。
赤ん坊に自意識が生まれて、相手のリアクションに
感情が込もっていないことが気になり始めるまでの間は、
十分にその役割を全うできるだろう。

こういった単純な仕組みの道具は、
感情を含まず、まるで呼吸するようにその機能を果たす。
生きるためには呼吸をしなくてはならないように、
赤ん坊にとって遊ぶという行為は、
最初は呼吸することとほぼ同じようなことなのかもしれない。
そこに自意識が芽生える瞬間まで、
自分にちょうど良い生のリズムを探るかのように、
起上小法師に対して暖簾に腕押しを続けるのだろう。
2015.04.11


2015/04/10

肝臓心臓 / LEVER HEARTS



線を引きながらリズミカルに点を打っていったら、
串に刺さった焼き鳥のレバーのようになった。
いちばん上についているのはハツだろうか。

昔から実家で出てくる鳥レバーの中にときどき歯応えの違う
グニグニしたやつがいるのが気になっていた。
小さい頃は、レバーのこってりした味が苦手で、
このグニグニした淡白なやつだけを食べていることもあった。
ハツさんである。その呼び名はドイツ語で心臓の意味のハルツから
来ている呼び名らしい。場所によってはココロと呼ぶこともあるようだ。
最近焼き鳥を食べに行くと、進んでハツ串を注文する。
レバーのおまけではない、ハツだけの串だ。
これが幼少期の体験の反動からか、異様に好きなのだ。
もちろん今はレバーも好きなことは言うまでもない。
鶏4匹分の心を、有り難く頂戴するその瞬間は
人間の業の深さを感じながらも、生きていることへの
感謝の気持ちを忘れないようによく噛んで食べる。
噛めば噛むほど、いい味がしてくるのが分かる。
塩で食べるのが好きだが、タレでももちろんいい。
ハツ串の食レポみたいになってしまったが、
生き物の心を食すわけなので、それで心を養わなければ
罰が当たってもおかしくないとも思えてくる。

よく道理に反することをすると罰が当たると言うが、
道理というのは大前提として人間が作ったものだとすると、
割と都合よくできているのかもしれないと、ハツを食べながら思った。
何か嫌なことがあったら、あの時の罰が当たったと
思えば少し楽になるのかもしれない。
2015.04.10





2015/04/09

穴子定規 / CONGER SCALE



くねっと曲がった柔らかい線は、
海の底の泥の中に潜むぬるっとした質感の穴子になった。

穴子は、江戸前鮨の定番ネタのひとつで、
ふわふわの身に煮汁を煮詰めてつくった
「つめ」と呼ばれるタレをつけて食すのが江戸前流である。
先日近所の鮨屋に行った際に、壁の品書きに
「秤目」と書いてあり、何かと尋ねると穴子のことだという。
知らなかった。
穴子の体の側面にある側線孔と呼ばれる均等な間隔の点々が
目盛りのようだから、「はかりめ」と呼ばれるようになったとか。
房総の方では、はかりめ丼というメニューがあるほど、
馴染みのある呼び方のようだ。
秤目は、秤竿に刻んである目盛りの呼び名であるが、
これをそのまま呼び名として使ってしまうところが粋である。
穴子は、昼間は海底の泥から顔だけを出して
辺りの様子を伺っている様子から、
「穴籠もり」→「あなご」になったそうである。
測線孔の目盛りを利用すれば、穴子が何センチ泥から
出ているのか非常に分かりやすいのかもしれない。
しかも、穴子定規は局面も計ることができる
とてつもない優れものなのではないか。

これから梅雨入りの時期が、
1年のうちでいちばん美味しくなるという穴子を
食べに行けるタイミングを計らなくてはならないと思う。
2015.04.09







2015/04/08

暖簾雑巾 / CURTAIN TOWEL



切れ目の入った布が風にそよぐような
シルエットが描けた。
それは日本人には見慣れた店先の目印、
暖簾に見えてきた。

暖簾は屋号を掲げる看板でもあり、
営業中であり開かれた場所であるという
意味合いを持っている。
そして、その名の通り
簾の隙間を埋めて暖をとる役割を果たす
ことから、この名称がついたという。
今でこそ綺麗な老舗店舗の店先を
上品に演出するイメージがあるが、
昔はその店の暖簾が汚れていることが、
その店の繁盛度合いを表していたようだ。
現在の寿司屋の走りが屋台形式をとっていた時代、
客はその汚れた手を、帰り際に暖簾で
拭いて帰ったというのだ。暖簾雑巾である。
いま考えると不衛生極まりないが、
当時店の店主はその汚れた暖簾を誇りに
思っていたのだろう。

この話は、時代とともに価値観というものが
必ず変化していくことを物語っている。
今は考えられないような価値観が
今後も生まれていくと思うと、
とてもワクワクしてくると同時に、
古い慣習に囚われすぎることは
本当にもったいないと思うのである、
2015.04.08


2015/04/07

花誘惑 / FLOWER TEMPTATION



ぐるぐるでぐしゃぐしゃな線が描けた。
正直何にも見えないと思い
人に聞いてみると、花に見えるという。
なるほど、確かに魅惑的な形状はその要素を持っていた。

花の造形は非常に摩訶不思議である。
その形状は多種多様だが、
共通していることは魅惑的で惹かれるものであることだ。
そして、いわば花は植物の生殖器官である。
そう思うと花の容姿が急に官能的に見えてくる。
ただ、花は生殖機能を他者に委ねている。
その委ねられた者たちが、無意識にそのお手伝いができるために
この花の魅力があるというのだから、
自然界の造形は我々の常識を超えていて面白い。
花の周りに鳥や虫が集まってくるのは、
自然現象ではなくて、花によって仕組まれた誘惑の罠だと言える。
よく生物学的な考え方で、
男性は女性よりも遺伝子的に劣勢であるという話がある。
むしろ、女性が遺伝子が退化したのが男性だとも言われる。
植物は花の中に雄蕊と雌蕊を持ちながら、独自の方法で種を残す。
ひょとすると人間も、生殖機能を他者に委ねるために
自己生成の過程で性別を分裂させたのかもしれないと思えてくる。
女性は美しさを武器に、男性の競争意識を煽り
自身の子孫を残すためのプロセスへと誘導しているのかもしれない。

理性と秩序が発達した社会においては、
女性の人権を侵したような考えのようにも思えるが、
生の生成過程の現象と考えれば、
こういったことも真剣に議論できる話なのだろう。
2015.04.07




2015/04/06

独楽貝 / TOP SNAIL



巻貝のような同心円の集積した形が描けた。
それは昔の日本のメジャーな子供の遊び道具だった
独楽のようにも見えてきたので、独楽貝と名付けた。

まず、コマという名称の漢字表記がおもしろい。
独り遊びの大発明ということか。
独楽は、日本だけでなく世界中で独自の進化をとげ、
子供の玩具から大人の賭けごとまで
幅広く愛されるプロダクトである。
紐で回すものや、手で軸を中心に回すものまで
その様式はさまざまあるが、
どれも共通して、遠心力と重力を利用した
シンプルだが奥の深い遊びだということである。
もちろん、2つ以上の独楽をぶつけ合って
独遊び王決定戦をすることもあるが、
醍醐味はやはり一人でその技術のバランス感覚を
極めていく時間にあるのだろう。
その形状が巻貝にしていることが気になり少し調べてみると
江戸時代には子供たちが小さな巻貝を加工して作った独楽で
遊んでいたことが伝えられていて、
それが所謂ベーゴマの原型になったという。
これは、自然の造形から遊びを導き出していたという
プリミティブな遊びのお手本と言えるのではないか。

ぐるぐる回る独楽を見ていると自ずと意識が1点に集中する。
この集中力はある意味集中しているようでその時間に
身を任せているような感覚なのではないかと思う。
これは瞑想のような感覚にどこか通じる、
超個人的な時間軸という現代に生きる我々がなかなか
味わえなくなったものなのかもしれないと思う。
2015.04.06


2015/04/05

水引 / MIZUHIKI



真ん中に少し隙間のある2つの矩形が描けた。
中央に少し力がかかっているように
歪んでいたので、真ん中に赤い1本の線を引いた。

水引は、祝儀や不祝儀の際に用いられる飾り紐で、
我々日本人にとっては馴染み深いものである。
紅白や黒白の組み合わせで使われることが多い。
今でこそ、飾り紐の形状や結びの形に様々な種類があり、
何が水引の原型なのかは分からないようになっているのではないか。
単純に、白い包みに赤い1本の線が入っているだけで
どこか心が嬉しい気持ちになるのは何故なのだろう。
遡ると水引は、紙縒りや麻紐を染めたものが使われていたらしく、
着色する際に色水にひたして引きながら染めたことから
水引と呼ばれるようになったという説がある。
小野妹子が隋から帰った際に、同行した答礼使が持参した
貢ぎ物に結ばれた紅白の麻紐が最初で、
後に宮廷への貢ぎ物には紅白の麻紐で結ぶ習慣が生まれたという。
平安時代よりも前は、「くれない」と
呼ばれていたという説もあるらしく、
本来は赤い紐で結わくというパッケージングを
指していたのではないかと考えられる。

貢ぎ物での使用が祝い事での使用に変化し、
慶弔での使用にまで使われるようになったパッケージングの元は
シンプルに赤い紐で括るところにあったのかもしれない。
そこに込められていたのは、相手を喜ばせるという
いたってシンプルな心遣いだったのだろう。
2015.04.05