WAGOMU-このブログについて-


WAGOMUというのは、「和」と「和む(なごむ)」から創った造語に、「輪ゴム」という括る対象によってその形状を柔軟に変化させることのできる図像の記号性を与えたものです。このブログは、2009年から「瞑想」というキーワードと向き合いながら広告会社でデザインをしている自分から生まれた造形に言語的アプローチで再解釈を与えることを目的に2015年の年頭にはじめました。
実家が、高野山真言宗という密教系の宗派のお寺であることから、美術大学の卒業製作のテーマとして「阿字観」という瞑想に出会いました。密教では阿字(大日如来を表すサンスクリット文字)と対峙しながら瞑想を行います。他の瞑想のスタイルにおいても、何か1つの対象や動作に意識を集中することで、瞑想を体得するものが多いのです。インターネット社会になり、SNSのタイムラインのようにどんどん流れていく情報が増え、多次元的に脳に取り込む情報の量が日々増えていくようになって久しい現代社会において、グラフィックが「瞑想」と同じような効果を人間の脳に与えることができるのではないか。それが私のコンセプトです。
しかし、このテーマを持ちながらデザインをする自分自身が日々の生活や仕事の中での大量の雑多な情報のインプットによって、1つの図像から受け取るインスピレーションの感度や、表現力が劣化しているのではないかという懸念が生まれました。そこで、図像に対しての感度を鈍らせないために、画材を制限したドローイングと、そこから見出した自分自身の思考の軌跡をブログという形で残すことにしました。ブログを書きついでに瞑想しようというわけです。日によっては更新できない日もあるでしょうが、基本的に1日1投稿を目標に続けていきたいと思っています。2015.01.03

2015/03/21

歯平線 / TOOTH HORIZON



小さな谷間のあるコロッとした塊。
それは、我々の口の中にたくさんある歯のようだった。
歯は、歯茎のような支持体がないと自立することがでないので、
歯茎色の水平線を引いてみた。
歯が1本しかないからか、それはどこか寂しげな歯平線になった。

成人の歯の本数は、親不知まで入れると32本とされている。
ただ、まれに過剰歯と呼ばれる歯が突如として生えることがあるらしい。
世界でもまれなケースでは、鼻の穴の中に過剰歯が生えたケースや、
脳内の腫瘍の中に歯が出現したというケースもあるようだ。
その話を聞くと、お行儀よく口の中に32本並んで生えてきてくれることが
どれだけありがたいことなのかと思う。
また、歯の硬さは鉄とダイヤモンドの間らしく、様々なものを
噛み砕く必要があるためかなりの強度が必要とされるからだろう。
この強度は、大きさがあれば殺傷能力のある凶器になるレベルである。
考えようによっては、歯は人間が持つ唯一の凶器とも言える。

そういえば、人に噛み付くという愚行に走る人がそうそういないのには、
暗黙知としてそれが凶器にもなりうると理解しているからだろうか。
甘噛みは許されても、本気で噛み付くようなことをしたら
周囲から相当な叱りを受けることは目に見えている。
そして、噛み付くというのは動物的な行動と見られている側面もある。
人間には、デリカシーがある。口の中に食べ物を入れて、
人に見せないように口の中でバキバキに噛み砕く。
それは人間が動物とは違うということを、
噛むという行為の行い方で線引きしているようにも思えてくる。
清廉潔白な白い歯というのも、人間が後から作り出した
歯のシニフィエなのかもしれない。
2015.03.21

2015/03/20

団子団子虫 / PILL BUG DUMPLING



3つの連なった円は、団子のようだった。
ただ、串を刺すだけだと面白くないので
土の中にいるダンゴムシみたいにしてみた。

ダンゴムシは触るとそのキャタピラのような身体を
くるりと丸めてしまう。その姿はなかなか愛らしく、
一昔前の人は誰しも、子供の頃にダンゴムシと遊んだ記憶があるのではないか。
ちょっかいを出すと必ずリアクションしてくれる、
かなり親しみやすいやつであることは間違いない。
彼らは、節足動物門甲殻網等脚目と分類される生き物で、
虫と言うくせにどちらかというと、カニやエビの親戚だという。
宮崎駿監督の風の谷のナウシカに出てくるオームという生き物が
団子虫に似ているが、あの世界観に引き込まれるのは、
子供の頃にダンゴムシと遊んだ記憶が反応しているのかもしれない。
宮崎映画は無意識のうちに記憶を呼び覚ます要素を含ませるところが、
ほんとうに素晴らしいと改めて感じた。

子供の頃は様々な虫と遊んでいた。
物理的に自分よりも小さな存在を前にして、
触ってみたり転がしてみたりと、夢中で観察していたと思う。
それが、スマホの画面ばかり触るようになった現代人にとって
虫と触れ合った最後の記憶にならないようにしたいものだ。
というか自分もしばらく土を触っていないと省みるのである。
2015.03.20



2015/03/19

赤帆 / RED SAIL



うねうねと波打つ線を重ねていくと、
だんだんとその線が荒々しくなってきた。
どこか高いところから少し荒れた海を眺めているような
心持ちになってきたので、その荒波を乗りこなすヨットなのか
小さな赤い帆を波の上に乗せてみた。
ショートケーキではない。
それは抽象的ではあるものの、色彩なのか、間なのか、
どこか意識を1点に集中させる魅力をもつ図像になった。

よく、海を眺めていると小さな悩みなんか忘れられると言う。
きっと我々は自分の胸から心を取り出して、
それを1隻のヨットのように大海原にぽつんと浮かべ、
その大きな器のなかで波のうねりに身を任せることができるからだろう。
時にその波は厳しさを教えてくれたり、
時にゆりかごのように穏やかに受け止めてくれたりもする。
そうこうしているうちに小さな悩みなど忘れ、
また心を自分の胸にしまって歩き出すことができるのかもしれない。

自己投影という言葉があるが、それは様々な対象に対してすることができる。
物語の中の悲劇のヒロインであったり、
自分と境遇の近い、異国の人であったり様々である。
ただ人は、自分よりもはるかに大きい存在に自己投影をすることもできる。
対象が大きいからこそ、自分をそれに置き換えようとはせず、
むしろその内側に身を置き、身を任せることで居場所をつくっている。
海の持つこういった力というのは、
そういうことなのかもしれないと思った。
2015.03.19



2015/03/18

粉々雪 / A PIECE OF SNOW



何か大きな塊が砕けてバラバラになったかのように
不規則に点を描いていると、雪の塊が砕け散った時の
拡散パターンを思わす点の配置になった。
それは、不規則だがどこか規則を感じるパターンでもある。

雪の塊は、それ自体よりも強度のある対象と衝突すると、その対象に
沿うように欠片が粉々に飛び散る。と、僕は記憶している。
その飛び散り方に、このパターンはどこか似ている気がしたのだ。
勝手な想像だが、雪の最小単位が雪の結晶だとすると、
例えば我々が雪を手で集めて丸めたものというのは
雪の結晶の結晶ということになる。
その塊を再び粉砕するということは、結晶の塊をもう一度
個々の結晶の単位に分解していくことになるだろう。
そう考えると、飛び散り方もどこか規則性がある可能性は大いにあると思う。
何の気なしに欠片と欠片を点で結んだら、
六角形になったりしたら面白いと思いませんか。

これは非常に根拠のないアナロジーではあるが、
こういった仮説をもとに観察をすることで、
自然界の中の規則性を見つけると非常に嬉しいものである。
もしかしたら、科学者や研究者といった職業の人たちは、
こういった知的瞑想を繰り返す中で、
自身の生きる喜びを実感しているのかもしれない。
2015.03.18



2015/03/17

樹懶餅 / SLOTH RICE CAKE



ある塊がにゅるっと伸びたような形。
それは柔らかい餅が何かに引っ掛かって
そこからだらしなく垂れ下がっている姿に見えたので、
赤い棒に引っ掛けてみた。

惰性というのは、外見からだけだと分かりづらい。
何か別のものと絡んではじめてその惰性
明らかになることがある。この餅はその一例かもしれない。
この樹懶餅を見ていると、どこか樹にぶら下がる
樹懶(ナマケモノ)の姿にもみえる。
ナマケモノも、長い腕を垂らして
全く身動きをとらずに過ごし、
樹の枝を基点に重力に引っ張られている。
滅多に地上に降りないことから、
古くは、風から栄養を吸収して生きている
生き物だとも思われていたという。

怠けるということは、
全てが忙しい現代においては
マイナスにとらえられてしまうが、
ことナマケモノという生き物の生態からは、
マイナスイオン(プラスの意味で)が
出ていると感じるのは僕だけだろうか。
自分で言うのもなんだが、怠けることが
嫌いで苦手にいつからかなっているのだ。
本来その素質はあるはずとおもいつつ、
何かそこらへんの枝にでも引っ掛からないと
だめかもしれないとも思うのである。
2015.03.16



2015/03/16

豊穣印 / FERTILITY SYMBOL



横線と縦線をなんとなく規則的に並べていると、
大地とそこから生い茂る草のように見えた。
同時に、左右に対になる形は
仲睦まじい男女の姿のようでもある。

豊穣という言葉があるが、
五穀豊穣というように作物の豊作を意味するこの言葉は、
古くは男女の結びつきによる子孫繁栄への強い願いに
端を発するものだったようだ。
こういった系譜は、
縄文時代の遺跡から出土した土器のディテールなどからも
読み解くことができるようだ。
当時、「蛇」は雄そのものを象徴していて、
蛇頭把手と呼ばれるある土器の取手部分は、
蛇の頭の部分を人間の陰茎に見立てて表現していて、
蛇は全雄を表すとともに、力を表す性の神だともいう。
彼らは種全体に宿る精霊性を表現するために、
あえてこういった抽象的な表現をしていたようだ。
縄文土器の図像にまつわる話が面白くまとまった
サイトがあったのでリンクを貼っておく。
こういった、言葉と図像の根源的な結びつきは
我々が知らないだけで沢山存在している。
きっとそれは、人生にイメージの豊穣をもたらしてくれる
古来からの暗号なのかもしれない。
2015.03.16




2015/03/15

拇印紋 / THUMBPRINT PATTERN



中心に向かって放射状に集まる線。
ただ、そこに規則はなく有機的な印象を受けた。
それは百人百様の文様を持つ親指の指紋のように見えた。
親指の指紋は拇印として、印鑑を持ち合わせていない時などに
代用されることがあるほど、本人確認の有効手段とされている。
言い換えれば、個々人の顔と同じような役割を持っているとも言える。

指紋というくらいで、この唯一無二の文様は
図形としてのある一定の造形としての美しさを持っていると思う。
それは、意図して作り出せるものではないがゆえの美しさであり、
自然界に存在するものの美しさに通じるものがある。
ただ、普段はあまり人の目に触れることがないからか
その造形に必要以上に固執する必要もないとされている気がする。
反面、我々は顔というものに非常に拘りを持つ。
人によってはその美しさを必要以上に際立たせるために
顔にメスを入れるようなことも辞さない。
この背景には、いちばん人の目に触れる場所がゆえに
他人と比較されてしまうというところがある。
どこかで美しさの基準が定義されてしまい、その基準との
比較でコンプレックスを抱いたり、自信を持ったりという
感情の振れ幅が生まれてくるのではないか。

解剖学者の三木成夫の著書「胎児の世界」の中で著者は、
胎児は生命発生の歴史を繰り返すと述べている。
胎児の顔は、受胎後30日頃から古代魚類、両生類、爬虫類、原始哺乳類
といった順番で一気に進化の過程を辿るという。
ビジュアルで見るのがいちばんわかりやすいので、
リンクを貼っておくが、その容姿は人間の顔といよりは、
指紋の皺の印象に近いとすら思えてくる。
ただ、この造形は美しいかどうかではなく
間違いなく我々にとって愛すべき造形である。
コンプレックスという後天的な感情を持った人にうまく
伝えるのは難しいが、自分の身体の造形の発生を辿ることで
その造形を少しでも愛するきっかけになるといいと思うのである。
2015.03.15