ランダムに筋が入り、
立体的な厚みを感じるシルエットが描けた。
それは、何かの切身のように見えてきた。
切身はあくまでも全体の一部分であり、
全体の認識からするとごく一部の情報しか有していない。
仮に、鰹や鮭、牛などの姿を我々が
認識していなかったとすると、
この切身が赤くてもオレンジ色でも
ただの切身としてしか認識できないだろう。
それ以前に、そういう物として認識して、
何かの切身だとも思わない可能性すらある。
人類が最初に切身に出会っていたら、
世界は全く違う方向に進んでいたかもしれない。
我々の認識として切身は、
生と死の境を彷徨う拠り所をなくした魂の
ような存在とも言える。
そんなイメージを鮮やかに断ち切る面白い
動画があったのでリンクを貼っておく。
生きている間に出会う記号は、
認識を積み重ねる中で常に情報更新されていく。
暗黙知というのは多くの集合認識が一致して生まれる
ものだとするならば、それを逆手に取った記号の
コミュニケーションが成立する。
もしそれがマンネリ化していくことがあるようならば、
積み重ねた記号認知をもう一度壊すような記号爆弾を
用いることでまた新鮮な記号認知に立ち返ることができのかもしれない。
2015.08.25
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