強い軌跡を残す真っ直ぐな線は、
轍を連想させるものだった。
轍は「わだち」と読む時と「てつ」と読むことがある。
先人と同じ轍を踏む、といった使われ方を
する時は悪い意味で使われることが多いようだ。
車の車輪によって刻まれた跡をそう言うわけだが、
足跡と違って悪い意味で使われるのは何故なのだろう。
先人の残した足跡は、我々にとって
進むべき方向性を指し示す指針になってくれる。
同時に、我々が去った後に指針にされるような足跡を
残せるように努力したいと思う。
最近、伝統の継承に携わる仕事をする友人と話して
感じることは、ちゃんと残すということは
とても難しく、またとても大切だということだ。
自分たちが死んだ後に来る時代に何かを残すための
プロジェクトなどに取り組む者には頭が下がる。
誤った轍を無理やり刻むことは、力技でできる。
しかし、ちゃんと残すためには先人達の足跡を丁寧に紐解き、
そのうえで正しい足跡をつけていく必要がある。
そこには、まずは受け取めなくてはならない
学ぶべき圧倒的な伝統があるのだ。
今は、ひとつ間違えれば荒々しい轍に足をつまずかせたり、
その轍を誤って辿ってしまう可能性が溢れているのかもしれない。
自分自身も正しく何かを残していくために、
多くを学ぶ必要性を感じずにはいられない。
2015.03.02
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