ぐにゃぐにゃと曲がった有機的な造形は、
盆栽の枝ぶりを思わせるものだった。
盆栽は、自然の風景を模して造形される。
その特徴的な枝ぶりや葉姿は、
鉢という小さな縮尺の中に、自然界のスケールの大きい
風景の現象を凝縮するための創意工夫なのだ。
表現手法はさまざまあるが、
枝を針金で固定して屈曲させたりするなど、
中々強引な方法で造形を作ることも多い。
とはいえ、生きた植物であることは尊重し、
そのケアにも同じ位力を入れ、長い時間をかけて作り上げる、
完成のない鑑賞芸術として確立されている。
最近では海外でもBONSAIという名称で認知され、
人気が高まってきているが、
日本人的な見立ての感覚が海外の方にどう理解されているのか
とても興味深く、一度聞いてみたいくらいである。
日本では、枯山水と呼ばれる石庭を、山水の風景に見立てたり、
自然界の現象をあるスケールの中に凝縮して表現することがよくある。
そこには、自分の庭を眺める時間という贅沢な欲求が潜んでいるのかもしれない。
庭は広くなくていいのだ。別に庭でなくてもいい。
箱庭のように、自分だけの小宇宙がそこにあれば生きる喜びを感じられる。
そういった才能が日本人には元々あるのではないか。
この、瞑想にもどこか近いような感覚というのを
日本人がみな持っているとするならば、
今後宗教観が多様化していっても、
日本人たるものの信念がどこにあるのか、
海外の人が理解しやすいのかもしれない。
2015.03.03
0 件のコメント:
コメントを投稿