ぐるぐると線を何重にも描いていると、
樹齢何年かは定かでないが、年輪のようにみえてきた。
年輪は、通常1年に1層増えていくとされていて、
この数を数えればその木の樹齢を知れるとされている。
木の幹の細胞が夏に大きく成長するのに対して、
冬は成長が止まることによって形成され、
年輪の線として見えてくる部分が、
冬の成長が止まっている時期にあたるため、
熱帯などのずうっと暖かい地域の木には年輪が
見られないこともあるようだ。
木の年輪を見ていると、人間の皺や指紋のようにも
見えてくるのは私だけだろうか。
厳密には、人間の年齢を年輪のように測ろうとしたら
歯の断面を見ないとわからないらしく、
指紋や皺はそれにあたらないのだが、
生きた歴史やその深みが刻み込まれているということか、
どこかその線1本1本には、想いを馳せさせる力があると思う。
我々は木でさまざまなものを作るため、木を伐る。
そこで対峙するその木の年輪に無感情にならずにいれているだろうか。
木が我々に与えてくれている恩恵は、以外と数字には
しづらいものである。非常にニュアンスや感情的な部分でもある。
例えば、同じヴァイオリンでも年を重ねた木材を使用した
ヴァイオリンの方がいい音が出るという話がある。
これは数字で測れるものではないが、ひとつ言えることは
そこに介在する「敬意」という意識は、人間がもつ
崇高な感情であり、これは決して失ってはならないものだと思う。
歳を重ね、労を重ねたものは
必ずしも全てが美しいものであるとは言えないかもしれない。
しかし、そこに価値を見出すことはできるはずだ。
ふと思ったが、いま社会全体に「敬意」が不足しているように思う。
敬意のない行為、敬意のない発言を聞くととても悲しくなる。
しかし、過去敬意をもって作られた新しいものには
本当に感動的な魅力が備わっているのだ。
2015.07.08
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